なぜ今、秘密計算・秘密分散が必要なのか — データ活用市場の視点から
はじめに
生成AIの学習データ、医療データ、金融データ——「使いたいが外に出せない」データは、ビジネスの至るところにあります。この矛盾を技術で解く手段として、秘密計算(Secure Multi-Party Computation, MPC)と秘密分散(Secret Sharing)への注目が急速に高まっています。
名前は聞いたことがあっても、何をどう守る技術なのか、そしてなぜ今なのかは、意外と整理されていない気がします。この記事では、仕組みを数字で追ったうえで、市場動向・規制の動き・実際の活用事例から、これらの技術が求められている理由をまとめます。
この記事の内容は次のとおりです。
データ活用と「外に出せない」の板挟み
企業や医療機関、金融機関が持つデータには大きな価値がありますが、以下のような制約で自由に活用できません。
- 個人情報保護法・GDPR・HIPAAなどの規制により、個人データの外部提供や複数組織間での結合には厳格な条件が課される
- 生成AIの学習に他社データや顧客データを使いたくても、「データそのものを外部のAIベンダーに渡す」ことへの抵抗感が強い
- 医療機関同士でデータを突き合わせたくても、患者の同意取得や匿名加工のコストが高い
この「データは使いたいが、生データは渡せない」というジレンマこそが、秘密計算・秘密分散が求められる根本的な理由です。生データを1か所に集めずに、暗号化・分散された状態のまま計算処理を行うことで、規制を守りながらデータの価値を引き出せます。
投入時に分け、集計時に分けたまま足す
言葉だけだとイメージしづらいので、いちばん基本的な形を数字で追ってみます。この2つは対になっていて、秘密分散はデータを投入する時点、秘密計算は集計する時点で効きます。
まず投入時です。ある値を、足すと元の値に戻る複数の断片(シェア)に分け、別々のサーバーに預けます。
図の読み方: 63・21・16は、どれも元の100とは無関係な数に見えます。実際、1つだけ、あるいは2つだけを見ても100は分かりません。3つ揃えて足したときにだけ100に戻ります。ここでは全部のシェアが揃わないと復元できない方式で説明していますが、しきい値を決めて一部が欠けても復元できる方式(Shamirの秘密分散)もあります。
次に集計時です。ここで復元してしまうと元も子もないので、シェアのまま計算します。A社の100とB社の40を足す、という集計を考えます。
図の読み方: どのサーバーも、自分の手元にある数字しか見ていません。それでも最後に持ち寄ると、A社の100とB社の40の合計である140が出てきます。元の100と40は、最後までどこにも現れません。
ただし、どんな計算も同じ手軽さでできるわけではありません。足し算は各サーバーが自分の分を足すだけで終わりますが、掛け算や大小比較はこうはいきません。サーバー間で通信しながら計算する必要があるぶん、コストが跳ね上がります。
市場が急拡大している背景
秘密計算(MPC)市場は、複数の調査会社が揃って高い成長率を予測しています。調査ごとに対象範囲の定義が違うので金額には幅がありますが、おおむね直近で10億〜19億ドル規模、そこから2030〜2035年にかけて2〜4倍に拡大するという見立てで一致しています。
| 調査会社 | 直近の市場規模 | 将来予測 | CAGR |
|---|---|---|---|
| Research and Markets | 18.7億ドル(2026年) | 2032年に37.2億ドル | 12.07% |
| Straits Research | 10.9億ドル(2026年) | 2034年に27.3億ドル | 12.18% |
| Precedence Research | 11.1億ドル(2026年) | 2035年に29.8億ドル | 11.63% |
| Mordor Intelligence | 9.6億ドル(2025年) | 2030年に16.7億ドル | 11.67% |
| Strategic Market Research | 12億ドル(2024年) | 2030年に46億ドル | 24.5% |
成長ドライバーとして各社が共通して挙げているのは以下の点です。
- GDPR・CCPA・HIPAAなど、プライバシー規制の厳格化がグローバルで進んでいること
- 金融・医療分野を中心に、組織を跨いだ安全なデータ協業・分析へのニーズが高まっていること
- 生成AIの普及に伴い、機密データを守りながらAIを学習・運用したい「Confidential AI」への需要が急増していること
- 特に金融サービス領域では、2025年の18億ドルから2034年に205億ドル規模(CAGR 32.5%)まで拡大するという予測もあり、規制産業での採用が突出して伸びていること
日本国内での規制・制度の動き
市場予測は海外調査が中心ですが、国内でも医療データ活用の制度整備が進んでおり、これが秘密計算・秘密分散の実需を後押ししています。
- 次世代医療基盤法(2017年制定、2024年4月改正法施行)により、認定事業者が匿名加工した医療情報を、NDB(レセプトデータベース)や介護DBなど公的データベースと連結解析できる仕組みが整備された
- 2025年秋以降、AI開発などの統計作成目的であれば同意なしでのデータ二次利用を認める改正案が議論されており、データ活用の裾野が広がる見通し
- EUでは2025年3月にEHDS(European Health Data Space)規則が発効し、医療データ保有者に対しデータ共有が義務付けられている
制度上「データを共有・連結してよい」という枠組みが整うほど、実際の運用では「生データを渡さずに安全に計算する」技術的裏付けが必須になります。ここに秘密計算・秘密分散の出番があります。
具体的な活用事例
将来の話に聞こえるかもしれませんが、すでに実運用や実証に入っている事例が複数あります。
- NICT・高知医療センターなどが開発した「H-LINCOS」は、秘密分散技術で電子カルテデータを複数の医療機関間に分散保管し、災害時にも迅速に復元できるシステムを実現している
- NICTは量子暗号技術と組み合わせ、電子カルテを秘匿したまま伝送・秘密分散する実証も行っている
- 内閣府の資料では、秘密計算(MPC)を使い、複数医療機関のサーベイランスデータ(JANIS)を各施設のデータを秘匿したまま2次医療圏単位で可視化した事例が紹介されている
- NECは「高秘匿連合学習」として、連合学習にAIモデルパラメータの秘密計算による秘匿化を組み合わせ、学習データの推測攻撃を防ぎつつAIの精度劣化も抑える手法を研究している
秘密計算と類似技術の違い
「データを外に出さずに使う」技術は秘密計算だけではありません。守る対象によって使い分けが必要です。
| 技術 | 守っている対象 | 一言で言うと |
|---|---|---|
| 連合学習(Federated Learning) | データの置き場所 | データは動かさず、学習した差分だけを持ち寄る |
| 秘密計算(MPC)・秘密分散 | 計算の途中経過 | データを断片に分けたまま、復元せずに計算する |
| 準同型暗号 | 計算の途中経過 | 暗号化したまま演算できる(秘密計算と目的は近い) |
| 差分プライバシー | 出力結果 | 結果にノイズを加えて個人の特定を防ぐ |
連合学習は「モデルパラメータ」という形でデータの痕跡が外に出るため、パラメータからの推測攻撃のリスクが残ります。このリスクに対して秘密計算を組み合わせることで、パラメータ自体も秘匿しながら学習・統合を行う、というのが前述のNECの高秘匿連合学習の狙いです。
まとめ
秘密計算・秘密分散が必要とされる理由は、突き詰めると「データ活用の価値」と「プライバシー・規制順守」という2つの要請を、生データを動かさずに両立させる必要があるからです。市場調査各社が軒並み2桁成長率を予測している背景には、規制強化とConfidential AIへの需要拡大という2つの大きな潮流があります。医療・金融という機密性の高いデータを扱う業界から実装が進んでおり、今後は生成AIの学習データ活用という文脈でも、この技術の重要性はさらに高まっていくと考えられます。
仕組み自体は、図で追ったとおり「分けたまま足す」だけでも成立します。一方で掛け算や大小比較まで含めると通信のコストが一気に変わるので、どこまでを秘匿したまま計算するかが現実的な論点になります。このあたりは、また別の記事で掘り下げたいと思います。
参考リンク
- 秘密分散と秘匿通信技術を用いた電子カルテ保管・交換(NEC)
- 量子暗号を用いて電子カルテを秘匿し、伝送・秘密分散(NICT)
- 量子技術の実用化推進ワーキンググループ資料(内閣府)
- Secure Multiparty Computation Market Forecast(Research and Markets)
- Secure Multiparty Computation Market(Straits Research)
- Secure Multiparty Computation Market Size(Precedence Research)
- Secure Multiparty Computation Market(Mordor Intelligence)
- Secure Multiparty Computation Market Report(Strategic Market Research)
- Secure Multi-Party Computation in Financial Services Market(MarketIntelo)
- 次世代医療基盤法に基づくデータベースと公的データベースの連結解析(厚生労働省)
- わが国の健康・医療等データの利活用のこれまでとこれから(KPMG)
- 医療等情報の利活用の推進に関する検討について(厚生労働省)
- 高秘匿連合学習 プライバシー・機密情報保護とAI活用を両立(NEC)
- データを秘匿したまま連携できる連合学習技術とLLMへの適用(NEC技術報告)